日本が誇るべき日本人が知らない盆栽職人2「北谷隆一」ストーリー

その他のコンテンツ 小林 職人紹介

日本が誇るべき日本人が知らない盆栽職人2「北谷隆一」ストーリー

世界屈指の松盆栽の生産地鬼無から、松専門の盆栽職人として頭角を表してきた気鋭の若手盆栽職人 北谷隆一。 鬼無最年少(※)盆栽家として、YouTubeを使って発信を続ける先に見たものとは……。

高松市鬼無地区から国分寺町地区にかけて、松の盆栽で全国シェアの約八割を占める一大産地があります。世界でも類を見ない松盆栽の聖地、鬼無地区に、次世代を担って立つ、若手盆栽家北谷隆氏が、先人の遺した盆栽を引き継ぎ、後世に遺していこうと、静かに強く盆栽道を切り開いていこうとしています。脈々と受け継がれてきた盆栽作りの技は、しっかりと引き継がれ、北谷隆一の手によって新しい形に生まれ変わろうとしています。SNS、動画を駆使し、鬼無の盆栽を発信し続ける北谷氏の今と、今後の展望についてうかがいました。

プロフィール
北谷隆一(きただにりゅういち)
100年以上続く盆栽園・北谷養盛園(きただにようじょうえん)4代目

1981年3月19日 香川県高松市生まれ
1998年 盆栽業に就く
2011年 アジア太平洋盆栽水石大会実行委員
2012年 鬼無植木盆栽センター役員就任
2014年 高松盆栽大会実行委員
※香川県盆栽生産振興協議会役員、高松盆栽の郷管理運営委員会役員、香川県盆栽生産振興協議会役員、鬼無の盆栽と造園の技術を融合させ、新しい自然芸術の可能性を追究していく集団「樹輪」会長など
※鬼無植木盆栽組合(センター)の組合員として最年少

当サイト「盆栽の学校」でも、「北谷隆一のよく分かる盆栽初めのステップ」という初心者向けの盆栽講座を展開。盆栽初心者に向けて盆栽の楽しみを伝える「4代目の盆栽枯らさない塾」でYoutuberとしても活動中

屋号:北谷養盛園
住所:高松市鬼無町藤井36-1
電話:087-881-2924


香川県高松市の北西部に江戸時代から続く、日本屈指の盆栽の産地である鬼無地区があります。

「鬼の無い町」と書く鬼無町の地名の謂れは、その昔鬼退治が行われて平穏になったという桃太郎伝説に由来すると言われています。のちに地元の人が桃太郎の偉業を讃え、桃太郎を神として祀った鬼無権現桃太郎神社があり、子守りの神として親しまれています。

鬼無の盆栽作りの歴史は古く、砂質の土地で、水はけがよく、植木、盆栽の栽培にて適していたようで、二百余年前、この土地の先駆者が瀬戸内海沿岸に自生する松を掘り、鉢植えに仕立てて販売したことから始まるとか。

盆栽に取り組む先駆者たちは、現在の盆栽の基礎となるいろいろな技術が開発したこともあり、この地が盆栽産地として発展してきました。

その後も先人たちが遺したものを代々受け継ぎ、様々な努力や改良を重ねてきて、鬼無地区から国分寺地区は、日本一の松盆栽の産地に成長して現在に至っています。

「盆栽と植木の里」というキャッチフレーズ通り、JR鬼無駅を中心とした地域一帯に、盆栽、植木、造園業者が点在し、盆栽園が集まった盆栽通りがあり、日本一の松盆栽の地ならではの風景が広がっています。広大な土地で盆栽の苗木が育てられているのは、なかなかお目にかかれない壮大な光景です。

駅のすぐ前、樹齢を重ねた松の鉢の視線の先に、相当数の松が植わった盆栽畑を所有するのが「北谷養盛園」です。瀬戸内の島々から「山採り」されてきた、樹齢推定100年以上の黒松が500本はあり、はたまた、小さな苗も群生しており、畑を前にすると悠久の時の流れを感じます。

高松市鬼無地区から国分寺地区にかけては、全国シェア80%を誇る松盆栽の一大産地。砂地で、水はけがよい土で育った松は、「根腐れしにくく、傷まない」、加えて樹形の美しさで盆栽界でも高く評価されています。

「北谷養盛園」の4代目北谷隆一氏(きただにりゅういち)が手掛ける盆栽は、ネットに流通することは稀ですが、稀に販売されれば、数十万円の盆栽が即完売になってしまうほど熱心なファンがついています。

鬼無の植木盆栽組合の盆栽園では最年少(※2020年4月)である北谷氏は、盆栽家として、どのような日々を送り、どのような思いで取り組んでいるのでしょうか。


今や鬼無を代表する若手盆栽家となった北谷隆一氏(以下北谷)。盆栽の世界に入った当初は、悩み抜いて胃に穴が空くという過酷な時期も経験した

小さい頃は盆栽について意識することもなかったんです。祖父である2代目や父である3代目の盆栽作りは、当然眺めていたとは思うのですが、記憶にはあまりないんです。

中学生くらいに、畑の樹を掘り起こすのに人手が足りないから、手伝って、と言われて、そのときにはっきりと盆栽を意識しました。なんというか、畑の樹を盆栽にする、うちは盆栽農家なんかなって。

17才くらいに高校で進路を選ぶにあたり、元々盆栽の道に入っていくのは決まっていたので、どうせやるなら早い方がいいかなと思って……体調を崩したのもあり、高校を辞めて、盆栽を本格的にはじめました。

盆栽の世界に入ってすぐの17、8才頃は、苦しくてやめたいな、とばかり考えていました。若さ故に体力はある。体力的なものではない「本気のキツさ」をはじめて経験しました。

見聞を広めるために、東京や愛知の盆栽園を先輩に連れて行ってもらい、一緒に見て回ったのですが、そこで、「この人らと相対するのキツいな」、「自分がこの世界に入っていくのキツいな」と、痛感したんです。

北谷養盛園は、先程「盆栽農家なんかなって思った」と言いましたが、言ってみれば盆栽の出荷前の状態というか、仕上がった状態であまり置いてないんですよ。見に行った先は小売り業者でもあり、直にお客さんを迎える準備の整った盆栽がある、盆栽が仕上がった状態で置いてあるんです。

圧倒されまくって、「これは大変だ、大変な世界に入ったな」、という感じで、眠れなくなったり、食欲もなくなったりして、若さ特有の追い込み方を自分に課してしまって、1回胃潰瘍になってしまったんです。考えに考えて、どうしたものかと、もやもやと誰にも相談できないまま、3代目にも相談できずに、心で思っているうちに、胃に穴が空いてしまっていました。



盆栽によって追い詰められ、自分を追い込んだ北谷を救ったのは、日々の盆栽管理、結局のところ盆栽そのものだった

2代目も3代目も、外部と広く交流するというより、まるっきりの盆栽農家だったわけで、商売の体系の違いみたいなものが、衝撃だったんでしょうね。

3代目までは黙って盆栽を作っていたらお客さんの方から来てくれました。盆栽を作ることには頭を使っていたけど、売るのにはあまり頭を使わなくてもよかったんです。先輩と回った先で、盆栽を売るための努力を見せつけられた気がして、それを自分1人で背負うつもりで悩んでしまって……。

そこから、じわじわと悩みながら、とにかく目の前の仕事をこなす日々でした。盆栽が原因となったもやもやとした気持ちと相反するようですが、盆栽に毎日触れることによって気持ちが切り替わっていきました。



そんな10代の頃は、とにかく、技術を身につけたい、得意分野を作りたい、自分なりの盆栽を商売として成り立たせるような時間と余裕を少しでも作りたいと思っていました。

長い年月を経て、結果的にあの頃悩んで胃に穴が空いたのも無駄ではないと思えるようにはなりましたね。盆栽により生じた試練は、盆栽に向き合うことでしか救われなかったんですね。

若いというだけで、憤った日々もあった。結局のところ、経験や技術が発展途上の自分に苛立っていたと徐々にわかっていった

そこから30才近くになって、やっとお客さんと話す役割を、うちの園でもおやじに変わって引き受けられるようになりましたね。

もちろん、3代目園主は健在ですが、自分がお客さんときちんと話せるような年齢になってきて、売る方の考えに及ぶようになってきました。

盆栽の技術と知識が身についてきて、やっと10代から抱えているもやもやが晴れだしたんです。人と盆栽について話せるようになると、どういった盆栽が求められているのか、どういうことが管理で困るのかなども含めて傾向もわかってきて、自分の血肉になっていく気がします。やっと自分から飛び込んでいって、どうにか顔を広げて、盆栽を売ることにつなげることができるようになってきたかなーーと。

若いというだけで、「若いのに何を言いよん」、みたいな態度を取られたことも、けっこうありました。正しいことを言ったとしても、納得してもらえないという思い、3代目が僕からしたら違うんじゃないかということを言ったとしても、賛同を得ているんじゃないかという思いを経験しました。ですから、ずーっと早く年を取りたかった。

転換期は20代後半ですかね、盆栽の仕事をやってきて10年くらい経ったところで、盆栽の話もできるようになって、いろいろなことが腑に落ちたときがありました。

そこからは、焦りのようなものも消えて、むやみやたらには理不尽だとか、憤ったりしなくなりました。

年を重ね、経験を重ねてきて、鬼無の先輩方、盆栽園同士の結束が固い鬼無という町が、最年少(※)の自分を見守り育ててきてくれたと思い至る

鬼無は特殊で、他の地域の盆栽園と違い、畑に松が植わっていて、それらを鉢に上げるという他の地域にはない特殊な作業があります。



こういう時期にこうした方がいいとか、盆栽農家ならではの薬剤散布、施肥とかそういうのも合わせて、盆栽の管理という点で、いろいろ意見交換することも多いです。

鬼無には盆栽園が約20軒程度あって、僕なんか鬼無植木盆栽組合の中で最年少なんですが、先輩方はやさしい方が多いです。盆栽職人の修行というと、厳しいことを想像されるかもしれません。実際、見て盗むといようなことが、ほとんどだとも聞いています。

本来は技術的なことは、なかなか教えてくれないものなのかもしれませんが、最年少というのもあってか、僕が疑問に思ったことを投げかけると、丁寧に僕には教えてくれる方が多々おられますね。勉強になることが多いです。

僕自身どこかの盆栽園に修行に行ってはいませんし、ここ鬼無という場所で修行ほど厳しいものも味わっていませんが、先輩たちが惜しみなく知識を与えてくれて、ありがたいなと感じます。

若くて悔しい思いもしたと言いましたが、若さ故の硬さもあったかなと。批判されているわけでもないのに、教えてくれたことを素直にとるべき時もあったかもしれません。

鬼無では、教えて頂く環境が整っている場所にもなり、盆栽家としてこの土地に育てられている気がします。他の地域も盆栽園さんが固まっている、よく整備されている地域があるのですが、鬼無は盆栽園同士の結束が固く、仲がいいですね。

やはり先輩方も口には出さなくても、ここ鬼無が盆栽の生産と共に発展し続けてきた世界でも類を見ない盆栽の産地、という自負があるのではないのでしょうか。ここは日本、いえ世界屈指の松生産地、松盆栽を極めることができる場所です。

僕もその一員としてしっかりやらなければならない、鬼無を盛り立てるために、何ができるかを模索しつつ、教えを請うています。



研鑽を続けてきたからこその自己主張、ノーと言える自分……下っ端22年で芽生えた反骨心。先輩方の経験の厚さと懐の深さに感謝

園のこととは別に、組合で動かないといけないこともあり、先輩方も僕が、あれこれフットワーク軽く動くので、重宝がってくれています。ただ、下っ端22年ですから、それなりにやさぐれてきて(笑)。



最近では自己主張も、以前よりは、しやすくなってきて、おかしいと思ったこと、できないことなどつい言ってしまうことも。例えば、頼まれ方が腑に落ちないことがあったら「なんでこんなせなあかんのーー、一応するけどおかしいでーー」とかね。頼まれたことをきちんとやって、それを積み重ねてきて、物事の判断もつくようになり、お世話になっている先輩方との関係性もできてきて、言えるようになってきたのではないでしょうか。

だって! 先輩方は、同年代の盆栽職人もたくさんいて、下っ端22年も経験したことないですから。「こっちは下っ端22年もやっとるんやぞ!(笑)」と、40代を前にして肝も座ってきて、反骨心も生まれました。

遅い反抗期を、先輩方の懐の深さで頼もしく思ってくれればいいのですが。

3代目とも盆栽についてはお互い真剣なので、がんがんやりあっています。

盆栽業界の現状とか課題とか、そういったことに関しては、3代目とは、ほとんど話をしていません。3代目の通ってきた時代とは違いますし。

今は何か仕掛けないと盆栽を知ってもらえない時代なので、もしかしたら今は僕の方がはるかに盆栽業界の現状について考えているかもしれないとも思います。そういう僕を3代目も黙って見守ってくれている気はします。

代々受け継いできた価値ある黒松を、僕の代で途絶えさせてはいけないーー突き動かすのは、代々受け継いできた樹を、一番美しい状態で残していくという使命感

北谷養盛園にある大半の樹は、僕の祖父にあたる2代目が瀬戸内海の島々から自生している黒松を山採りしてきたいわゆる島木がかなりたくさん残っています。かれこれ60年前に祖父が掘ってきて、60年間うちにあり、樹齢100年以上と推定されるものが約500本あります。



山採りとは、山に自生している自然の樹を掘り下ろしたもので、もっともさかんだった盆栽の樹の入手方法の1つでした。ここらでも、昔は冬場の農作業のひまな時期に、山採りをすることで収入を得ていたようです。

瀬戸内海国立公園に指定された津田や、上方と瀬戸内海を運行する上で港町として栄えた引田や、日照時間が長く土壌豊かな三豊などで山採りがさかんになり、やがて松が少なくなっていくと、瀬戸内海の島々に松を求めて、遠征するようになったとか。

自生樹がなくならないよう、1本掘ったら苗木を1本植えるということもしていたようですが、山採りの樹は大方取り尽くされてしまったのと、法律上と、山の所有者に承諾を得たとしても、自然保護、環境保護の観点から、今では山採りを行わないのが普通です。

そんな貴重な樹を、祖父、祖父と父、父、父と僕と、代わる代わる手入れし、日々気にかけ手をかけ、形を作ってきました。山採りされてきた当時よりも、かなり美しい状態で、盆栽として、一番いい姿を常に維持するように手入れしています。

代々、維持してきた価値ある黒松を、僕の代で途絶えさせてはいけない、より美しい状態を維持していかなければならないとは常に思っています。




盆栽の寿命は、きちんと培養管理されれば、樹齢100年、200年、なかには500年を超えるものもあり、代替わりしながら脈々と受け継がれていくものもあります。

地植えの樹であれば、樹齢2000年以上のものもあります。それも驚くべきことですが、盆栽の樹齢と比較することはできません。盆栽の場合は、限られた大きさの鉢の中で培養管理するという第一ハードル、そして、剪定や樹形づくりなどにより、人が絶えず手を入れて、その樹にとって最高の姿を作るという次のハードルがあります。

最高の姿を常に追い求めて、樹にとっては一瞬の美の姿かもしれない、瞬間の美を維持していくというのが常にそびえる難所であり、盆栽の興となるのです。

自生していた山採りの樹は、何とも言えない風合いが魅力。ただでさえ樹齢の長い樹を、畑に長く置き、はさみで整えるという独特の管理法を貫く

盆栽の樹は、祖父がしたように自然界にある樹を山採りするもの以外に、実生、挿し木、接ぎ木、取り木などにより人工的に育てるものがあります。人工的な育成方法でも、立派な樹はできますが、やはり自生していた山採りの樹は、幹に独特の模様があり、個性的です。



昔は、人工的な樹=養成ものは、山採りに比べ、格下と見られており、年月をかけて作られた自然の風合いの希少性というのが重宝がられていました。

今では養成ものも、技術の進歩により見直されていますが、やはり自生している樹には独特の風合いがあると、山採りの稀少価値はさらに上がっています。

樹齢の長い樹を、畑に長く置いて、なるべく針金を掛けずに、はさみで枝を整えるのが、うちの園の特徴でもあります。

山採りした樹を畑で育てていくと、鉢植えより3倍程度のスピードで成長し、太くて立派な松になってはくれます。やはり限られた鉢内より、栄養もあり、根も自由に張れて樹にとっては畑の方がいいとは思うのですが、大きくなりすぎてはいけません。それだけに適切な管理が必要となってくるのです。

園では、五葉松1480本、黒松5700本、錦松300本の約7500本もの松を所有。自身も松好きで松専門店を公言。松プロフェッショナルを公言することで、重みも増す

「雨が少なく風がよく吹く」という、瀬戸内海の風土が生んだ山採りの黒松には、独特の模様と曲がり具合がある上に、僕たち3代に渡り、手塩にかけて育ててきており、北谷養盛園で、最高級の黒松を維持管理しているという点に、日々挑戦している感じはしています。

この畑にある、五葉松は、自然な状態で育てれば、年間10~15cm程度成長します。これらを、大きくならないように、剪定することによって先端を止めて、小枝を充実させます。太い枝を間引きすると、樹形の整った美しい姿となります。

うちにある五葉松は、太くてどっしりとしたものが重宝されている時代にも、コケ順といって、太い根元から上部に行くにしたがって細くなっていく状態が整っているものを大事にしていました。初代である僕の曽祖父弥二郎(故人)細くても幹の曲がりのあるものに、「わび」「さび」を見て取り、盆栽の価値を見出していたようで、2代目の祖父義明、3代目和彦と受け継がれてきています。

初代から受け継いてきた、宮島系の銀性八房(ぎんしょうやつぶさ)五葉松は通称「銀八(ぎんやつ)」と呼ばれ、葉が銀色の霜降りが鮮やかで、上部で美しく、荘厳な感じのする樹種です。枝振りも整えやすいので、樹形が作りやすいです。江戸時代から鬼無地区が主な産地となっており、鬼無の五葉松には、「銀八」が多いんです。

「銀八」は、黒松の苗に五葉松の根を接いだ状態から作っていきます。最初は小指より細いくらいだったそうですが、樹齢90年を経て重量感も出て、枝も整い、豪壮な感じになっています。

年月を重ねて、黒松と五葉松の接いだ部分がわからなくなってきたら、「銀八」として仕上がってきたということです。初代が接ぎ木をした五葉松も大体1m20 cm程度の樹高を維持しています。鉢上げして鑑賞するためにも労を惜しまず手入れすることが重要です。

五葉松、黒松の他にも錦松が数百本あり、雑木盆栽はほぼないに等しく、最近では松専門店と公言しています。

以前県の担当者の方に数えてもらった所、だいたい、黒松5700本、五葉松1480本、錦松300本、約7500本もの松が、北谷養盛園にあるんです。

先程も言いましたが、稀少価値のある山採りの古い松をはじめとして、これらの松を自分の代で終わらせてはいけない、枯らしてはいけない、と盆栽の世界に踏み入っていくほど、より実感しています。松盆栽専門店の自負を持つためにも、公言することが自分にとっても大事というか。

もちろん、自分が松が好きだというのもありますし、自分なりに経験を積んだからこそ、松盆栽専門店と言い切れるようになったんですが。

経験というのは、単に盆栽を触ることではなく、ピンからキリのさまざまな盆栽を見て、自分の引き出しが増えてこそ備わるものだと、身を持って味わった

樹を鉢に植える際、正面決めからはじまります。盆栽のプロ・アマ問わずその人との人によっていろんな考え方がありますが、そのときに盆栽が一番美しく見える場所かどうかというのを判断することです。

(目の前の盆栽を持ち上げて)例えば、この子に関してはここが一番美しく見えるという選択肢以外は、なかなかありません。

後は上に向いているとか、下に向いているとか、左右に傾けるのか、とかいったことも正面決めと同時にすべき作業です。



正面が決まったら、この正面ではこの傾き具合に対して、どの枝がベストな場所にいけばいいかと考えます。一見よく育った枝でも、決めた正面に対し、その枝がよくないと判断したら、ばっさり切って、残った枝で配置を考えて、想像しながら針金を巻いていきます。

まずは正面を決めるのが、最初の第一の一番大事な作業と言えます。

盆栽の世界に入って、すぐ正面決めが迷わずできるかと言えば、盆栽のその後を考えていなければ、すぐできるかもしれません。

盆栽にとって一番いい正面がどこかと決めるのが、なんなら、一番難しいとも言えます。昨日今日、盆栽をやりはじめた人で、盆栽の正面を毎回正しく決めるのはなかなか難しいです。

僕もこの世界に入って22年やってきたから言えることですが、経験がかなり備わってやっとできることではないかと。経験というのは、単に盆栽に触るとか作るとか、そういったことではありません。いい盆栽と、言い難いですけど、そうでもない盆栽も含めてピンからキリまでいろいろ見て、自分の引き出しが増えた中で、より正しい正面が見えてくるのかなと、実体験を通して思います。

正面決めは、盆栽の一生を決める最初のステップですから、慎重に、根の張り方や、幹の曲がり、枝ぶりなどを考慮して決めていくのですが、経験を重ねると、抑えるべき基本はあるとはいえ、そこが感覚的、直感的なものになっていく気がします。

もちろん、年月を経て樹が成長してくと、樹形も変化していき、正面も変えなければならいといったこともあります。3,4年の間隔で植え替えをする際に、正面を決めて、また一番美しい姿を追い求めていくというサイクルが発生しますが、これも盆栽に挑まれている気がします。盆栽に関わる上での緊張感の維持に一役買っているというか、盆栽の醍醐味とも言えるかと思います。

あくまで盆栽は好みのものですので、正しいか正しくないかはなかなか言えませんが、プロの中ではある程度、流石にその正面は間違いだろいうというのがあったりして、せめてそこはあまり選ばないようにはした方がいいかもしれません。

正面決めは、プロの中でも意見がわかれており、個性につながってもいます。そこがすべてともいうくらいで、ほんの数ミリずれるだけでも、枝のすべての角度が違ってくるほど、まったく変わってきます。

やっていくうちに盆栽を見れば誰が作った樹か個性が出る。盆栽職人として樹の最大限の能力、魅力を引き出すというのが、僕の手掛ける精一杯の樹への誠意

3代目がなるべく幹に対してまとまっているような締まった作りを好むとすると、4代目の僕は、この枝がこっちに長くあるのなら、どう活かせるかなと考えて、できれば枝の個性をつけいきたいというのが好みです。

3代目とぴたっと合う時もありますが、けっこう思い切り意見が割れるとき、お互いこれはないだろう、みたいな選択もあります。3代目は伝統を重んじますが、僕はいいなと思ったことは何でも取り入れつつ積み重ねて自分の形を作ってきました。

鬼無には他にも約20軒の盆栽園があり、この道一筋何十年も頑張ってやっている方がおられます。

僕も自分でやっていくうちに、作った樹を見て誰が作ったとわかるようにもなってきて、勢力的に針金をかけている人は、その人が作っているところを見なくても、樹を見るだけで、これはあの人が作ったのかな、というくらいはわかるようにはなりました。

自分で枝葉の剪定をすると、切る枝、残す枝の判断も難しいこともあったのですが、園には樹がたくさんあり、周りに教えてくれる先輩もおられますから、多少の失敗は恐れず挑戦することができます。

もちろん、盆栽は、針金を巻くという技術の良し悪しも重要ですが、針金を巻くということ以上に、どう針金を巻くかが試されます。

枝決めも大事な作業です。いらない枝やバランスの悪い枝を取り除く作業で、いい木を長く見ていないとできない、と言われています。先程、樹齢の長い樹を、畑に長く置いて、なるべく針金を掛けずに、ハサミで整枝するのが、うちの園の特徴と言いましたが、枝決めがきちんとできれば、針金をかけなくても素晴らしい樹形を作ることができるんです。

様々な盆栽の樹をみてきましたが、北谷養盛園にある盆栽は、元々才能ある優秀な盆栽だという確信があります。そんな才能をもった盆栽たちの、能力をいかに引き出していかに伸ばしていくかが僕の仕事です。

すべての盆栽には持って生まれた何かしらの才能があると思っています。盆栽の素が、隠れている、内在しているとしたら、盆栽自体はその才能に気づかないかもしれないと思うんです。

だからこそ、僕が盆栽職人として、その才能を開花させるお手伝いをする、樹をなんとかして、最大限の能力を引き出すというのが使命ではないかと思っています。

経験を重ねてきて、樹が盆栽として自分の才能を開花させるのを待っているのではないかと思うようになってきました。

20代からの自分の命題は得意分野を作ること。ようやっと辿り着いたのは、「樹の管理については隆一に聞け」、と言ってもらえるような、「管理のプロ」を目指すという選択肢

適切な管理をしていけば、盆栽は生き続けていきます。僕は仮にも盆栽の生涯の貴重な一部を預かる立場ですから、才能を開花させるために、俯瞰的視点を持つようにしています。

樹が現状どういう状態でどう見えていて、その時できる最大限でどうなればいいのか、どう見せればいのか、この先どうなっていけばいいのかをいうことを、判断します。正面から裏から、右から左から、上から下から様々な角度から見ること、樹の歴史、過去と未来に思いを巡らせます。

園として生き残っていくためには、次の園主として、自分なりに得意分野を作っていかねばというのは20代の頃から思っています。

盆栽といえば、剪定や針金かけをする姿がまず思い浮かぶ方もいらっしゃると思いますし。そういった部分は目立ちやすい、評価されやすい気もしますが、管理面で美しい状態で維持するという点を僕は目下のところ重点的にやっていきたい。ここ鬼無、いえ日本の盆栽家が「管理のことは隆一に聞け」、と言われるような「管理のプロ」になりたいです。



盆栽作りのために、隙間時間を見つけては、デッサンを書き溜め、画像をストック。イメージに近い樹がきたときのために、すでに助走はできている

暇さえあれば、盆栽の絵をちょろちょろ描いています。こんな盆栽どうかなーと、様々なパターンで、幹が太くて枝が細かったり、幹が細くて枝が太かったりとか実際にあるかないか別として、僕の想像の中のものすごくおもしろい盆栽を見つけるために絵に描いています。

まっすぐならこういう枝、斜めの斜幹ならこういう枝ぶり、文人ならこういう枝が適しているなど、想像というか妄想の中での理想の盆栽像を追い求める作業です。

盆栽を作るにあたり、引き出しが多くないと作れないと思っているので、決められた樹形でも、僕なりのおもしろい形を発想できていたら、いざその形に近い樹が自分の手元にきたときに、あの感じでやればいいのかと、助走になるのです。枝をこれぐらい曲げて、切ればあの形になるのかと、イメージ作りにとても役立っています。

すごく意識して描いているというよりは、合間を見つけて、描こうと思って描くというよりも、自然にたまたま目の前にペンと紙があればデッサンをはじめます。

まだ、未就学の子供がいるのですが、子供がお絵かきしていたら横で一緒に描くこともあります。そういうときに面白いものが浮かぶことも多いです。

デッサン以外にも、Facebookやネット上で見て、これはすごいな、自分の発想にないな、と思ったら画像登録して、ストックしておきます。

幹のくねり方、太さ細さが千差万別なので、こういう風にした方がいいという引き出しが多ければ多いほど、結果的に発想力につながるので、常に探して、模索しいていて、とにかく国内外問わず、いろんなものを見るようにしています。

365日、園での盆栽の管理で、園を離れることも限定されますが、2代目、3代目時代にはなかった、あったとしても今ほどの汎用性はなかったネットを活用して、古典的なもの、モダンなもの、モダンを超えて斬新なものが多々見つかります。

海外の盆栽も日本の真似をしているものも多いですが、枝の作り方、曲げ方で新しい発想のものもあったり、単純にきれいだなと思わせるものもあったりして、こんなやり方もあるのかとプロ・アマ問わず参考になります。ここ鬼無が正当な盆栽の本場のようなものですので、ネット上で樹種によってはけっこうおもしろい、さまざまな盆栽を見ているのも、時には息抜きにもなりますよ。

もちろん、ストックしたものをそのままやるわけでなく、同じような幹がでたときに、自分なりのアレンジを加えたり、引き算したりして、理想の盆栽を作っていきます。

デッサンしたり、画像をストックしたりすることで、頭がかちこちに固まらない感じはします。

また、樹を前にすれば迷いも生じることもありますが、デッサンや画像ストックによって、イメージが常にあるので、迷いも減ったような気がしています。無駄な時間を費やすこともなく、最短で目標に到達するというのに役立っている感じはします。

盆栽にもイメージトレーニングが有用というか、普段の引き出し作りで、安定して盆栽作りに臨むことができるというか、理想の盆栽像を備え、揃えておくことで、どんな樹がきても蓄えたイメージを載っけていくことができて、時間の節約にもつながるんです。

1つの作業を極限まで効率化することによって、時間を節約し、他の作業に当てていく。1本の樹に向き合うかを突き詰めていく

僕の切実な目標は、微視的ですが極限まで日々の作業を効率化することなんです。今、北谷養盛園には、先程も言いましたが、小さい苗木も合わせて、7500本くらいの樹があり、3代目の父と、僕の2人で管理しています。2人しかいないのに、樹がたくさんあります。

大きいものだけでも1000本もの樹があり、大きい樹は扱うのに気力も体力も相当必要です。
こういう言い方をすると、シビアに聞こえるかもしれませんが、盆栽職人も必ず賞味期限がきてしまう。気力と体力のバランスが相まった充実期を越えると、体力の衰えをそれまで培った知識と経験値でカバーする円熟期があって、そこを超えていくと、気力と体力のバランスがいびつになって、盆栽職人としては賞味期限切れになってしまうのではないかと。

2代目は22歳で亡くなってしまったのですが、鬼無でも勢いのあった盆栽職人さんたちを見てきて、やはりピークを超えて円熟の域に入っていったその先は、盆栽を触る、作るということは生涯できるとは思うのですが、プロとしての盆栽家は厳しいのかなと。

例えば、畑の松を、次の春に鉢上げしようとすると、松の根回しをしておかなければなりません。スコップで松の周囲を掘って、伸びた根を切っていき、形を整えた後に、再度土をかぶせて養生します。こういった作業も体力を伴います。

7500本もの樹を園で管理するのには、かなりの時間と労力が必要で、僕は5000本くらいを常にどうにか維持管理するのに、体力をかなり使いながらやっています。どちらかというと、父が針金かけとか最後の仕上げ作業を担当しています。僕は、あまり盆栽の仕上げをすることがなくて、維持管理を中心にして、父と棲み分けしています。

今のうちに極限まで作業を効率化することにより、円熟期に入った頃の余計なストレスを減らせるようしておきたいとも思っています。

先程「管理のプロ」を目指してきたと言いましたが、維持管理については、効率よくする、という点でも、かなり自信をもっています。例えば、1年間の樹の成長に対してハサミを入れる回数をいかに少なくするか、いかに省エネで1本の樹に向き合うかを突き詰めていくと、維持管理以外に使える時間を捻出することができます。他の職業でもこういうことはあるでしょう。

1つの作業が少ないと他の作業、他の樹を助けることに時間が避けます。

限られた時間という概念なしに、5000本もの樹を世話していけば、2000本から3000本くらいの管理のみで1年間が終わってしまって、後の4000本くらいが、二束三文にしかならなくなってしまいます。盆栽のデッサンやネット上での盆栽の画像さがしも、そうやって捻出した時間により可能になるわけですから。

樹の管理を効率化することにより、盆栽作り、仕立てに、より気力と体力を使えるのではないかと。

自分なりの一進一退の樹へのさまざまなアプローチ、さまざまな試行錯誤があった。今では何千もの樹のデータが北谷の頭の中に蓄積されている

とにかく、いろーんな樹を観察し、手入れし、いろんなタイミング、手入れの仕方で樹に向かう毎日でした。

はさみをいれる時期を早くしてみたらこうなるんだ、とか、集中的にやったり、ある程度放っておいたりと強弱をつけてやってみたんです。その結果、枯れそうになったらだめやったんだ、うまくいったらこのやり方でいいんだと、まさに一進一退ですよ。やっぱり、樹が大量にあるというのも幸いですかね。

剪定もこの時期は、よさようやけど、どの時期までいけるんやろうか、2月の剪定はいけたけど、では3月はどうなんだろうとか、そんなことばかり考えて、やったらいいことあかんことがわかってきたんです。

いろいろな実験結果の下、まあまあこんな感じなのかなと。何千本ある樹のデータが僕の頭の中に蓄積されています。ただし、樹はあくまで生き物ですから、その年の気候、雨量、樹の状態など様々な条件が重なってきて、データ通りいかないことも多々あります。

そういうときは、経験値がものを言うと断定したいところですが、真面目に松に接してきたんですから、盆栽神社の盆栽の神様や子守の桃太郎の神様も悪いようにはしないでしょうーーただただ天に祈ります(笑)。



盆栽を商売として成り立たせるためのネットワーク作り。自分も学ぶ姿勢で、時間をかけて培った関係は、商売だけでなく、その後の自分の糧となるはず

作るだけでは、盆栽園として商売が成り立ちませんので、やはり買い手を見つけていかなければなりません。うちの園にある、樹の特性上、一度に大量販売するというものではないのですが、どうにかして、買ってくれる人をみつけて、途切れることなく販売していかなければなりません。

ただ、販売を全面に出したアプローチをするというよりは、盆栽家、盆栽の販売側の人、仕入れに行った先で出会う盆栽愛好家さん、業者さんなどと、普段から情報収集を兼ねて話をしまくって、そうしていくうちにできるネットワークを利用して、自然と買っていってくれる素地を作るのに、今は奔走しているといった感じです。

いい話はないかなーーと、販売を全面に押し出すのではなく、自分も学ぶ姿勢でちょろちょろと顔を出して、長いものにぐるぐると巻かれにいっています(笑)。

最近は愛媛に仕入れに行ったばかりで、「鬼無グリーンフェア※」で、お客さんとして来られたところに、「今度盆栽あるのなら見に行かせて下さい」と頼んで、その方が売りたい樹を言い値で買ってみたり、ちょっとまめに連絡したりして、恋愛の最初のようなことをやってみます。
(※鬼無グリーンフェア:毎年4月に香川県特産の盆栽・植木・苗木・草花等、約500種、1万点を展示販売。その他、盆栽植木専門員による講習会、園芸全般の相談受付、緑化推進基金に繋がる園芸品オークション等を行う)

時間はかかりますが、そうやって仲良くなっていくと、人を紹介してくれたり、案内してくれたりするようになって、次の段階に進んでいきます。がんがんアプローチして、無理に扉を開けるよりは、そういった自然な距離の縮め方が僕には心地いいですね。人脈としても、その方が長続きするように思えます。



最高峰の鬼無の盆栽を知ってもらうために、自分なりにできることを考えていたタイミングで、YouTuberとして発信する機会に恵まれる

先輩方は、盆栽を積極的にアピールしなくても、お客さんの方から来てくれる、買ってくれたような時代を通ってきたんですね。今は、海外に販路が拡張されてきているとはいえ、国内需要は厳しいものがあります。

組合最年少、下っ端22年として鬼無の盆栽をもっと知ってもらうために、何かやらなければと意識しています。

盆栽を売る、というのが得意な盆栽園も全国には多い中、高松、鬼無辺りは、作って管理するという能力が高い方が、多いかなという気はしていまして……。畑での丹念な管理を経て、鉢上げされて、盆栽として仕立てられた鬼無の盆栽は、最高峰といっても言いすぎではありません。

ただ、もっと知ってもらうために何とかしないと、とは思っているのですが、如何せん、樹の管理で手が回らないという実情もあり……。ネットを使って何かできないかな、と考えていた所、一緒にやってみませんかと、知人から声を掛けて頂きました。

組合最年少というのもあってか、テレビや新聞などメディア向けの取材は、僕が広報役として度々受けていた中で、メディアの方が頻繁に園に出入りするようになり、撮影・編集に長けておられる方々に知り合いができていきました。その流れで、盆栽をおもしろいと思った方が、若手盆栽家の代表として一緒に盆栽の動画を作って発信しませんか、と僕に白羽の矢が立った感じです。

内容は、YouTubeで、「4代目の盆栽塾」として、盆栽の管理の仕方を発信しています。僕もなるべく新しいことをしたかったし、盆栽家としての自分をPRするのが結局は地域に貢献できるのではないかと思っていましたので、渡りに船と、即受けしました。

おかげさまでチャンネル登録者数令和2年3月時点で4000人と、順調に伸びており、日本だけでなくスペイン語、フランス語、英語など全世界からコメント欄への書き込みがあります。ちょっとずつですが、広まっていってくれてありがたいです。盆栽園では思いもよらない反応、ダイレクトな反応というものの範囲がすごく限定されているので、ネット世代の僕としては、そこにも活路とやりがいを見出だせています。

時々、YouTubeを見たと海外から来園される方もいて、発信の必要性を実感しています。盆栽を海外に売ろうとすると、検疫の問題があり、厳しい部分もあるのですが、元々日本を代表する文化でもある僕の好きな盆栽が、鬼無発信で知ってもらうことに喜びを感じます。

鬼無では動画での発信は新しい試みに見えるのか、ますます取材といえば隆一みたいな感じ、ますます若手代表の扱いになっています。このままいくと、永遠の若手という立ち位置かもしれません。

鬼無の松と、畑に松が植わった鬼無独特の田園風景を残すために、自分が強くなることで、ここ鬼無を強くしていきたい

僕はクリエイターではなく、盆栽の樹、盆栽を作る人です。盆栽作りを続けて、祖先から受け継いだ松を、いい状態で残していくことが大事だと思っています。

聞いたことに対し、惜しみなく培った知識や技を教えてくれる先輩方がいて、畑に大量の松が植わっているからこそ、失敗を恐れず挑戦できた、という駆け出しの若手にはありがたい環境が、ここ鬼無にはあります。自分を成長させてくれる鬼無という地域そのものに感謝の気持ちがあります。

ネットを使って僕が前に出るというのも、子供の頃から慣れ親しんだ、盆栽畑が広がる、鬼無独特の盆栽の田園風景そのものを、多くの人に知ってもらいたい、残していく重責があると、若手盆栽家として思っているわけです。

もちろん、第一には、畑の松の素材の質を高めて提供していくことで、日々の地道な作業を手を抜かず、本物の樹を作って行かなければなりません。

技術を身に着け、日々精進した上で、鬼無の盆栽を発信していきたい、自分が強くなることで、鬼無という地域を強くしていきたいです。

北谷が、理想とする盆栽とは、盆栽を前にして、何者にも囚われず、どれだけ見ても飽きのこないような盆栽。そんな盆栽を生涯かけて作っていきたい



僕が目指す盆栽は、どれだけ見続けても飽きのこない盆栽です。盆栽は、自然の縮図でもありますから、そこにあるだけで、無限の風景、無限のストーリーを作り出すことができます。盆栽を見た瞬間に、すごいなーー美しいなーーが、最初にきたとしても、ずっと眺めているうちにそんなことも忘れて、何にも囚われることなく、ただただ盆栽を見続けるという、そのような盆栽が理想ですね。盆栽を見ているけど見ていないというか、盆栽と僕という一個の塊同士しかそこにはないような……。

なんにも囚われないで見て下さい、と言われて、言ってその状態になるものではない、自分から湧いてくるとか、意識の底から語りかけるとか、そういうことも取っ払った状態です。

具体的に、こういう樹種や、こういう樹形でとか、こういうの好きだなーーとか意識的にはあるのですが、盆栽を前に感情とか言葉を超えて、盆栽のある時間と空間だけに意識が没入する状態が、自分にとってもこの上ない盆栽鑑賞の興だと思います。そんな盆栽を生涯をかけて作っていきたいですね。もちろん松で。

ブログに戻る

この記事を書いた人

小林真名実

小林真名実
福井県出身。関西学院大学卒。雑誌・書籍・ウェブ・携帯サイトの編集に従事。その後、日本の映画・放送・アニメーションなどのコンテンツ産業を国際競争力ある産業とするNPO法人にて広報、戦略室業務などを担当。その後、出産を経て夫の転勤に伴い香川県に移住したことをきっかけに盆栽を知る。日本の伝統文化である盆栽の奥深さを世の中に伝えたく盆栽総合情報サイトの立ち上げに参画。編集長に就任する。
プロフィールを見る