実は意外な盆栽の起源。盆栽の歴史を紐解くと見える真実とは?

小林 盆栽の知識

実は意外な盆栽の起源。盆栽の歴史を紐解くと見える真実とは?

日本の盆栽が世界に認められるようになった理由が明かされる盆栽の歴史探検。

「盆栽」とはいつどのようにして生まれたのでしょうか? 実のところ「盆栽」の起源については確かなことはわかっていません。というのも「盆栽」は絵画、建築品などの芸術品と違って、管理や培養により、鑑賞価値や姿が変わり、枯れたり、消滅したりすることもあるからです。

確かなことは不明ですが、少なくとも2500年前には、既に樹を鉢に植えて育てる趣味があったと言われています。

ここでは知られざる盆栽の歴史を紐解き盆栽の魅力について深く探求していきましょう。

盆栽の起源・歴史

中国における「盆栽」は「盆景」と呼ばれ、「盆景」が平安時代から鎌倉時代あたりに日本に渡来したとされています。それ以来日本の文化として多くの人々に愛されてきました。日本の盆栽は、中国の「盆景」を日本の土壌で育て、成就させたものであり、本質的なところは同じと言えます。「盆景」の背景には、歴史や、宗教、哲学などさまざまな要素が背景にあり、日本の「盆栽」もまた、同じと言えましょう。

日本の盆栽文化は芸術性の評価も高く、海外では“BONSAI”として、認知度は年々高まっています。

中国の盆景

先の述べたように、元々「盆栽」は中国が発祥で「盆景」が元とされています。
辞書(『大辞泉』小学館発行)で「盆景」の意味を調べてみると、

1 盆栽に石などを置いて山水を写したもの。
2 水盤の上に、土をこねて山や岩をつくり、色砂で海などを表し、自然の風景を写したもの。水盤盆景。
3 箱庭のような小規模な風景。

とあります。
3は「盆景」に共通する概念として、1と2は同じ「盆景」でも様式の違いがあることがわかります。
このように、中国盆景は、1の山水盆景と、2の植物盆景の主に2つの様式に分類できることがわかります。

まず、植物盆景の起源についてですが、後漢(紀元25〜220年)時代の河北省にある貴族の墓から、鉢植えの壁画が発見されています。現状発見されたものの中で、植物・鉢・台が揃った最古のもので、植物盆景の元となるもので、約2000年前に貴族が鉢植えを所有していたことがわかります。

一方山水盆景の起源については、河北省 「安平漢墓」の壁画で、墓の主人のおそばつきの者が盆山を捧げ持っている様が見られます。「安平漢墓」は180年前後に建造されたと考えられ、山水盆景の起源はこの頃ではないかと言われています。

山水省大同市の北魏(386〜534年)の司馬金龍の墓から出土した5つの屏風漆画の内の1つ『列女古賢図』に、盆山が見られます。図には2人の人物、衛靈(れい)公と靈公夫人が描かれており、靈公夫人が丸盆を捧げ持ち、靈公が鑑賞しているようにも見られます。丸盆には石が置かれており、山水盆景らしきものが貴族の邸宅に飾られていたということが見て取れます。

列女古賢図

「盆景」の成り立ちとしては、大自然を崇め、畏敬の念を抱くという自然崇拝、人が不老不死の仙人になり得る、という道教の神仙思想、魏晋時代(220〜303年)の主に文人らによる老荘思想の体現に依る隠土文化による具象表現の1つであったと考えられています。文人らは老荘思想を体現するため、隠遁・逸民(俗世間をのがれ隠れ住む人)となり、山林に隠れ、自然に身を置き愛好しました。

人と自然の調和は、中国の文化、道教において重要なテーマであり、文明の発展と共に、世俗に触れつつも、精神世界を満たすために、自然の縮図である「盆景」が有用であったのも想像に難くありません。

唐代(618〜907年)には、経済が反映し、社会も安定した時期も長かったことから、芸術面でも空前の繁栄を迎えました。造園も盛んになり、「盆景」も発展しました。

盆の上に土や砂、石、植物などを配置し、山や川などの景色を表現した「盆景」が唐(618〜907年)の時代に生まれたとされています。「盆景」すなはち鉢の中の景色(盆中景)を意味し、限られた空間の中に自然の美を濃縮して表現することを目的としています。

唐代の遺跡『章懐太子李賢墓壁画』(紀元706年)にも従者が「盆景」を捧げている図があります。中国の唐の時代、高宗(649〜683年)の皇太子で、中国史上唯一の女帝則天武后(690〜705年)の息子、李賢(654〜684年)の死後の生活のために宴の場を開くために、従者たちが調度品を捧げ持っている図だと捉えられており、1400年以上前より、陶器に草木を植えて、鑑賞する風習があったことがわかっています。‘盆栽の体’を取る最も古いはっきりとした記録であり、「盆栽」、「盆景」を知る上で最も重要な資料の1つと言えるでしょう。

章懐太子李賢墓壁画

また、文人らの間では、庭園に植えられた、背丈が低く、老態のある小さい松を愛でる風潮が起こってきます。

宋代(960〜1279年)には、文化芸術方面でも目覚ましい発展が見られます。唐代の松を鑑賞する風習がさらに発展して、‘盤松’という古老松を鑑賞する風潮が起こりました。樹や草を石付けにした盆栽も見られるようになりました。‘盆石’という石を使用することで、人々は中国独自の山水の景色を表現しようとしたのでしょう。

南宋時代(1127〜1279年)になると園芸市も盛んになり、盆栽の売り買いが活発に行われていたという記録が残っています。

元代(1271〜1368年)は、モンゴツ人が立てた征服王朝という側面もあり、社会的に不安な状況の下、漢民族の文化があまり発展しませんでした。「盆景」、「盆栽の発展のない時代とも言えますが、この頃、「盆景」の小型化が進んだようです。

明代(1368〜1644年)には、漢民族の統一国家が再興し、文化芸術は高度に発展、宋代の基盤の上で、盆松、「盆景」も一層の発展を見ます。「盆景」は広く浸透し、資料も数多く残されています。
明代の植物盆景の整枝技術は『汝南圃史(じょなんほし)』、『姑蘇誌(こそし)』、樹形と様式は『考槃余事(こうばんよじ)』、『素園石譜(そえんせきふ)』などに記されています。

素園石譜

清代(1644〜1912年)になっても盆景ブームの勢いは続きました。「盆景」は、中国庭園の中でよく飾られ、特に乾隆帝(1735〜1795年)、嘉慶帝(1796〜1820年)の時代に、技術が発達し、「盆景」に使われる植物(樹木、花木、観葉植物、草本類)の種類や様式も多様化しました。
この頃の暮らしを描いた絵画や文献には、「盆景」が多く登場します。『冬景花卉詩画冊(とうけいきしがさつ)』には、石を置いた「盆景」が鮮明な釉色で描かれています。
「盆景」は富裕層だけの高尚の趣味ではなく、一般民も楽しめるような馴染み深い趣味となったのもこの頃と言われています。

冬景花卉詩画冊

清朝後期から国力が衰退し、文化全般、「盆景」についても発展は遅々となります。
中華人民共和国(1949年〜)の設立以降、文化大革命(1966〜1976年)を挟んで、古代の盆景芸術は再び活気を取り戻し、急速に発展していき、盆景組織が中国各地で出現するようになります。

1988年には北京で中国盆景家会(中国盆景芸術家協会)が設立され、中国の盆景芸術の急速な発展を後押ししました。現在、ほとんどの自治体及び自治区にて盆景組織が設立されています。
盆景関連の書籍や雑誌なども多く出版されており、月刊《中国花卉盆景》、盆景記事がかなりの割合を占める新聞『中国花卉』、隔月刊の『花木盆景』などがあります。2015年以前の過去10年間では50種類以上の盆景関連の本が出版されています。

中国は広大な大地を有し、地域環境と自然環境の相違のため、現在「盆景」では八大流派と呼ばれるものが存在し、それぞれの地域の伝統を重んじた樹形を持っています。

八大流派

八大派
州(蘇州)[江蘇省]、州(揚州)[江蘇省]、南(嶺南)[広東・広西・海南省、湖南・江西省一部]、四川、安徽、上海 、浙江、如皋(じょこう)[江蘇省]
南盆景:自然=生き生きとして自然なさま
四川盆景:蟠曲多姿=くねくねと曲がっている
州盆景:清秀古雅=清楚で古風で雅なさま
州盆景:整庄重=厳粛で重々しい
安徽盆景:古朴奇特=古風で質朴かつ珍しいさま
上海盆景:明快流=明快で流れるように滑らかな
浙江盆景:雄挺秀=たくましく雄大なさま
如皋盆景:云雨足美人腰=雲の頭、雨の足、美人の腰のような

中には抽象的な樹形も多く、日本の「盆栽」に慣れ親しんだ人にとっては少々奇妙に見えるかもしれません。しかし、どれも趣深いことは事実であり、その文化は現代中国にも受け継がれています。伝統の流派は更に発展し、絶えず新しい流派が現れて百花の美を競い向上していくというようなよい風潮となっています。

中国の社会文化の中では、「盆景」を育てることを、人格を磨く1つの方法とも捉える節があるようです。「盆景」を通じ中国の植物園には、大抵盆景園のコーナーがあったり、昔ながらの公園みたいな場所の一角などに、スペースがあって、無造作に「盆景(盆栽)」が並べてあったりして、愛好家も多数存在します。

日本の盆栽の歴史

「盆栽」の発展の元は中国から平安時代(794〜1185年)から鎌倉時代(1185〜1336年)に伝わったという「盆景」にあるようです。
これ以前には、奈良時代(710〜794年)の歴史書『日本書紀』(720年完成)に、作庭について書かれた最初の記録が見られます。

『日本書紀』二十二推古
是、自百濟国有化來者、其面身皆斑白、若有白癩者乎。惡其異於人、欲棄海中嶋、然其人曰「若惡臣之斑皮者、白斑牛馬不可畜於国中。亦臣有小才、能構山岳之形。其留臣而用則爲国有利、何空之棄海嶋耶。」於是、聽其辭以不棄、仍令構須彌山形及橋於南庭。時人號其人曰路子工、亦名芝耆摩呂。

現代語訳
この年(即位20年)、百済(くだら)国から自ら帰化する者がいた。その体は、まだらであった。もしや白癩(びゃくらい・しらはだけ)である者か。その人の異様である様を忌み嫌い、海の中の島に捨てようとした。するとその人が言うには「もし私のまだらな肌を忌み嫌うのであれば、白斑な牛馬を、国の中で飼うできではないだろう。また私には、いささかの才能があり、山や丘の形を作ることができる。すなはち私を留めて使えば、国のために利益があろう。なぜ虚しく海に捨てようとするのだ。」と言った。その言葉を聞き捨てなかった。それで須弥山(しゅみせん:仏教の世界観の中心にあると考えられる山)と呉橋(くれはし:中国風の橋)を南庭(なんてい:宮中の庭)に作れと命じた。時の人はその人を路子工と言った。またの名は芝耆摩呂(しきまろ)である。

奈良の正倉院には「仮山(かりやま)」と呼ばれる宝物があり、木製の洲浜状の台の上に朽木の根を立てて山水を表現したものです。「仮山」は仏具の1つであることから、インドで誕生し、中国や朝鮮半島を渡り6世紀半ばに日本に伝来した仏教の影響があったことがわかります。また、「盆景」がこの頃からはじまったと推測されます。奈良時代は中国の唐文化の影響を色濃く受けており、この「仮山」は中国から伝わった現存する日本最後の縮景物とされていますが、州浜の形を好むのは日本独特の美意識であると言われています。

鎌倉・平安時代

鉢植えについては、平安時代の歴史書『続日本後記』に、839年、河内国(現大阪府)の農民が、自宅に咲いた橘の花を瑞徴(ずいちょう)ではないかとして、橘の木を土器に植えて、仁明天皇(810〜850年)に献上したという記録があります。

さらに発達して、「盆景」に草を植えるようになったようで、この様子は、藤原氏の氏神春日大社の霊験を描いた『春日権現験記』(推定1309年制作)、に出てくる絵に描かれています。
公家・歌人であった藤原俊成の邸宅の中で、「盆栽」らしきものが庭先のすのこの台の上に置かれており、雲形の把手の付いた入れ物の中に白い砂を敷き詰め、大きな石を2点配し、手前側の岩からは木が生え、赤白朱の色彩で花と実が付いている。向こう側の石には、苔むした岩肌に傘を広げたような松が植えられています。その向こうには、蓮の葉の文様が浮き出た青磁の鉢に、水を張って石を据え、草を生やしています。

春日権現記

歌人西行(1118〜90年)の物語を描き出した『西行物語絵巻』(13世紀後半制作)も「石付き盆栽」の様式で描かれています。
鎌倉時代の絵巻物を紐解けば、当時縮景とされた、「盆栽」、その向こうに少し範囲の広い山水の庭、さらに自然の景色があり、自然が凝縮濃度を強くして座敷に向かって配置されているものが見られます。

西行物語絵巻

本願寺三世覚如(かくにょ・1270〜1351年)の伝記を描いた『慕帰絵詞(ぼきえことば・1351年制作)』には、庭先に鉢木を3個並べた状景が描かれています。絵中には、瓦器(がき)と言われる素焼きの鉢白い玉砂が敷かれており、爽感の梅や、曲がった幹の松が植えられています。

文学上では吉田兼好が著した随筆『徒然草』(鎌倉時代後期制作)の百五十四段の記述が最初のようです。鎌倉時代後記の公卿日野資朝(ひのすけとも・1290〜1332年)が愛好していたという植木のエピソードが出てきます。

『徒然草』百五十四段
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたはものどもの集りゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様(ことよう)なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり、尤も愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただすなほにめづらしからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間植木を好みて、異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えれば、鉢に植ゑられける木ども、皆堀り捨てられにけり。さも有りぬべき事なり。

現代語訳
資朝卿が東寺の門に雨宿りなさっていたところ、身体に不自由のある者たちが門の下に群れ集まっていたが、手も足もねじゆがみ、反り返って、誰もが不具であり異様であるのを見て、「あちこちと珍しく変わった生き物だ。よく見てみる価値がある」とその様子を見守っていると、すぐに興味が失せ、見るに堪えず、不快に思われてきた。「曲がっているより、珍しくないまっすぐな身体の方がいい」、と思って、家に帰ってから、愛好していた植木を見て「異様な曲がり具合を好んで鑑賞していたのは、あの不自由な者を愛でているようなものだ」と気が付いて、一気に興ざめし、鉢に植えられていた木(盆栽)を全部掘り起こして捨ててしまったというのは、もっともなことである。

室町時代(1336〜1561年)には、八代将軍の足利義政(1436〜1490年)が「盆山」を愛好していました。
義政の側近である季瓊真蘂(きけいしんずい・1401〜1469年)は日記『蔭涼軒日録』に、「盆山」のことを記しています。そこには、室町幕府と結びついていた「五山十刹(ござんじっさつ)」と呼ばれる禅宗の寺院では、禅僧が「盆山」を趣味にしていたが、将軍の命により、この五山の「盆山」を漏れなく集めた様子、集めた「盆山」について、石は愛宕石、美濃石、樹は柏森、五葉松、ツツジなどの記述があり、これらの「盆山」には“船”=器がついていなかったということからも、石に植物を根付かせた「石付き盆栽」の祖先と言えるものでしょう。

慕帰絵詞

義政の世話した「末の松山」という盆石は、義政没後、織田信長(1534〜1582年)の手に渡り、‘石山合戦の和’(1570〜1580 年)に際し、本願寺に送られ、今も西本願寺が所蔵しているそうです。
足利将軍家の「盆山」愛好は、信長に受け継がれたようで、義政から信長の時代にかけてが、「盆山」の最盛期と考えられています。この最盛期の様子を反映したような「盆山」の姿を伝えている絵画に『盆栽図屏風』があります。

盆栽図屏風

江戸時代

江戸時代の初期に作られた『盆栽図屏風』は大変珍しい「盆山」を主題とした屏風で、これには容器に水か砂を張ってあり、岩があり木が植えられているという今の「石付き盆栽」が描かれています。
この屏風の「盆栽」は水面に浮かぶ島のような姿に作られており、木そのものを愛でる「鉢木」と違って、「盆山」は石を含めた全体の姿が重要だったことが見て取れます。この屏風絵から、前出の『春日権現絵巻物』に描かれた「盆山」に比べて、植え付の仕方や器の豪華さなどより洗練されたものとなっているように見られます。

この頃、ポルトガル人が日本を訪れており、1603年〜1604年に長崎で発行された『日葡辞書』に、
「Bonsan(ぼんさん・盆山)の記述が残されています。それに依ると、

Bonsan……日本人が緑色の苔を付けたり、何か小さなを植え付けたりして、水面に浮かぶ小さな岩のような格好に作る、ある種の石や自然木の材

となっています。
「盆山」は中世期における「盆栽」の祖先の1つで、盆中の仮山、すなわち盆仮山(ぼんかさん)が縮まって「盆山」となったものです。庭があり、「盆山」があり、座敷があって、と自然の凝縮具合が高まっています。

この盆山は今も伝統芸能の中、ある男が「盆山」を盗みに入った屋敷で主人に見つけられ、犬や猿の鳴きまねをさせられた上に、鯛  の鳴き声まで要求されて逃げ出すという江戸時代(1603〜1867年)の狂言の『盆山』という演目として生きています。

近年世間では盆山が大流行。ある屋敷の主人が豪華な盆山をいくつも所有しているとの事。このあたりに住む男が羨ましく思い、屋敷の主人に譲ってくれと頼むが一つもくれません。男は一計を案じて、その知人宅の屋敷へ夜な夜な忍び込み、好みの盆山を無断で拝借することにします。たくさんの盆山の中からほしい盆山を物色していると、男は盆山の影に隠れますが、が主人は盗人が盆山をほしいと言っていた男だと知ってちょっとからかっていじめてやろうと考えます。「犬か?」「猿か?」「鯛か?」と、その鳴き声を強いられた挙げ句、飛び上がって「タイっ」と鳴いてみせる。

というお話です。中世の終わりに都で「盆栽」が流行り、コレクターもいて、盗人まで出る程だったというのがわかります。

「盆山」と並んで「鉢の木」も中世日本の「盆栽」のルーツと言われ、浮世絵、版画などによく描かれています。
また、寒い冬の夜に旅の僧侶を装った北条時頼(1227〜1263年)を温めるため、三本の鉢植えの木を燃やしたという1300年代後期の言い伝えが、江戸時代(1603〜1867年)、観阿弥・世阿弥の作とも伝わる謡曲『鉢木』に登場し、人気を集め、以降数世紀に渡り、木版画や絵画として描かれています。

ある冬の夜、一人の旅の僧が、上野国(こうずけのくに=現群馬県)の一軒のあばら家に一夜の宿を求めます。あばら家の主(あるじは、貧しさの中で精いっぱいもてなそうと、秘蔵の松・梅・桜のみごとな三鉢の鉢木を薪にして暖を取り、僧をもてなす。僧に促され、主は身の上を語り、今はこのように落ちぶれているが自分は武士であり、「いざ鎌倉」という時には駆けつけて命を捨てる覚悟だと語る。翌年春、鎌倉から緊急の召集があり、武士が駆けつけると、鎌倉幕府第5代執権北条時頼の御前に召された。時頼こそあの日の旅僧で、時頼は一夜の宿のお礼にと、松・梅・桜にちなんだ名前の三つの所領を武士に与え、この武士の心意気を讃えた。

この物語はフィクションですが、中世の関東地方において、落ちぶれた貧乏な武士でも、「鉢木」を所蔵していたとう様子が窺えます。また、落ちぶれても尚「鉢木」を所蔵していたという点、それらを薪にしてもてなした心意気を権力者が讃えたという点からも、「鉢木」の価値が窺い知れるのではないでしょうか。
近世では大名・旗本クラスのような上層階級と、庶民の下層階級のそれぞれの盆栽文化が大きく育っていった時代です。

江戸時代に入ると、様々な芸術が盛んになる中で、園芸も発達し、多くの園芸書が作られ、一大園芸ブームがあったようです。江戸時代の初代から三代将軍の徳川家康(1543〜1616年)、徳川英忠(1579〜1632年)も大の園芸好きであり、将軍に仕える大名や旗本にも影響を与えました。
この時代には「盆栽」が大名から家臣に与えられたとも言われており、それ程価値があったことが考えられます。

園芸を主に趣味としていたのは武家、大名家でしたが、盆栽専門の職人が現れ、盆栽文化は大名から庶民にまで広がったとされています。この園芸趣味の中でも、松や梅などの年月を重ねる樹木の愛好が、明治維新以降の「盆栽」へとつながっていきます。

江戸時代、迎賓館や東宮御所、園遊会が催される「赤坂御用地」(東京都港区)は、紀州徳川家に敷地で、庭園には大きな園芸場が作られており、所狭しと鉢植えが並べられていたようです。

第三代将軍の徳川家光(1604 〜1651年)も「盆栽」の熱心な愛好家だったそうです。特に五葉松の「盆栽」がお気に入りで、家光が育てた松の「盆栽」のいくつかは今でも大切に保管されています。

中でも、推定樹齢600年の家光遺愛の五葉松『三代将軍』は名品中の名品とされ、皇居の大道庭園と呼ばれる盆栽仕立て場に大切に管理されています。『三代将軍』は‘三代古盆栽’と言われるものの1つですが、他の2点は都立園芸高校(東京都世田谷区)にあります。

因みに、この時代の園芸技術の高さや、園芸への思いは、当時の園芸書を見ればよく分かります。園芸書の前身は、植物図鑑でした。江戸時代前期のものとしては、つつじの名花図『躑躅(つつじ)花譜』、36種のカエデに美しい銘と古歌を添えた『古歌仙紅葉集』(1710年制作)、日本初の桜の図鑑『怡顔斎桜品(いがんさいおうひん)』(1758年制作)などがあります。

江戸時代末期に発行された『本草図譜』(1828年完成)は約2000種の植物を写生、彩色し、ジャンルごとに分類し,解説を加えた日本初の総合的植物図鑑と言われています。同時期に発行された『草木図説』(1856〜1862年刊)は1250種類の草類の写生図と解説からなる日本最初の近代的図説です。

両者の、最も重要な相違は、前者が中国の本草学=中国及び東アジアで発達した医薬に関する学問を元に分類しているのに対し、西洋近代植物学のリンネ式=植物を「属名」と「種名」であらわす二名法を取り入れ、ラテン語の学名で考証されているという点です。

植物のカタログである図鑑に対し、植物の育て方やその技術が記された日本初の園芸書は水野勝元著の「花壇網目」(1681年発行)でした。江戸初期の植栽技術を総合的に解説しており、季節ごとに花の特徴と栽培法が記されています。

江戸は識字率が大変高く、世界でもトップレベルだったという説もある程です。上層階級や知識人だけでなく、一般庶民にとっても図鑑や園芸書は興味深いものだったでしょう。これらの書物が広く読まれることで園芸も大きく発展していったのではないでしょうか。

この頃、近代になり音源的に“盆栽”という言葉がでてきます。

明治・大正時代

幕末から明治にかけて、煎茶会が流行します。中国の文化に強い憧れを抱いていた京阪の文化人たちが、中国の新しい文化である煎茶を導入したのです。
背景には、武家を主な担い手とし、抹茶を飲む‘茶道‘への批判もありありました。‘茶道’のような細かな規範に縛られず、自由さを求めるのが‘煎茶の心’でした。

文人たちは茶の湯文化では床の間に置かれていた生花よりも「盆栽」を好み、中国の文人画に見られるような自由な筆の動きを好み、花より木の姿を表したものを好みました。煎茶席に置かれる用具はほとんどが漢名で、すべて音読であり、音読みの“ぼんさい”が使われだしたのです。

京阪で流行した煎茶会を背景に、鉢植えと呼ばれて庭先に置かれていたものが、“盆栽(ぼんさい)”という呼称を持って座敷の上に場所を占めて飾られるようになったのです。
公家や維新の志士たちが“盆栽”を好むなどして政治も絡みつつ、“盆栽”が文化の階段を登っていったのです。

煎茶会で盆栽が飾られていた様子は、‘茗讌(めいえん)図録’が参考になります。‘茗’とは茶を意味し、‘讌’は宴という意で、煎茶会の記録となります。代表的なものとして、1862年に大阪で開催された煎茶会の記録『青湾茶会図録』(田能村直・1863年刊)があり、煎茶会の席に「盆栽」が飾られ、床飾りとして鑑賞された様が見て取れます。

技術的な面では、明治時代(1868〜1911年)になると、自然の景観を重視した樹形づくりを呈する自然盆栽が提唱されました。この頃には針金かけによる整技法が開発され、それまで困難であった樹形づくりが比較的簡単にできるようになりました。この自然盆栽の概念と、針金による整技法の技術の発展は現在の「盆栽」の基盤となっています。

明治維新以降は政府の要人の間でも盆栽愛好の風潮が盛んになり、この風潮は皇族、政治家、財界にも広まり、それらの「盆栽」を管理する専業の盆栽家が現れてきました。

早稲田大学の創立者、政治家として知られる大隈重信(1838〜1922年)も盆栽愛好家として知られています。広い邸宅の廊下に所狭しと「盆栽」を並べ、膨大な「盆栽」の培養場を管理していたようです。

正岡子規(1867〜1902年)や夏目漱石(1867 ~1916年)など、明治の文豪たちにも「盆栽」は愛好されました。病床にあった子規の元には文人たちからの贈り物として、「盆栽」が届けられていたそうです。子規の俳句や短歌にも「盆栽」が詠み込まれています。

病人が盆栽の梅咲きにけり
盆栽の蓮に向ふや夕涼
盆栽ノ柘榴實垂レテ落チントス
盆栽に梅の花あり冬こもり

病床にあっても、四季折々の句を、「盆栽」を愛でながら詠む子規の姿が思い浮かぶようです。子規はまた、随筆集『墨汁一滴』の中で

病牀(びょうしょう)で絵の写生の稽古するには、モデルにする者はそこらにある小(ちいさ)い器か、さうでなければいけ花か盆栽の花か位で外に仕方がない

とも記しています。

明治時代の煎茶会の形式で室内に持ち込まれた「盆栽」の陳列会は、大正時代(1912〜1926年)を通じて座敷飾りへと変化を遂げます。

1921年に東京の盆栽業者が中心になって「大日本盆栽奨励会」が組織され、毎月各盆栽園を会場に陳列会が開かれるようになりました。大会は年2回、東京上野鴬谷の料亭「伊香保」において開かれており、この奨励会の宣伝誌として、月刊『盆栽』が発刊されました。

盆栽熱の高まりと共に、盆栽関係の図書も刊行され、展覧会が催されたり、盆栽家達も活発な活動を見せ、「盆栽」の一般普及が加速しました。

昭和

昭和時代(1926〜1989年)に入るまで、「盆栽」は主に一部の趣味者による煎茶会や、料亭での会員制の陳列会で飾られたりはしていましたが、もっと多くの人に見てもらおうと、畳1畳分の展示で陳列会をするようになりました。このことは大変重要な別の効果を生み出しました。

1927年朝日新聞社の有楽町の新社屋にて『盆栽』誌主催の「明治大正記念全国代表名木盆栽展覧会」が開催され、1928年には昭和天皇御即位記念泰祝事業として「全日本盆栽展」が、東京市(現千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区に渡る地域)主催で日比谷公園広場で開かれました。

これらは「盆栽」が畳1畳分にて展示されるようになったことで、どこででも展覧会ができるようになったことが大きく影響しています。また、この盆栽展で初めて“皇居の盆栽”がお貸し下げになりました。皇室の後ろ盾を得た「盆栽」の格がさらに高みに上がったという大変重要な意義を持っています。

1934年には東京府美術館(現東京美術館)で「第1回国風盆栽展」が開かれました。開催にこぎつけるために、都新聞(現東京新聞)記者のかたわら、『盆栽』誌を編集(のちに発行人に)、「盆栽」の普及に努めた小林憲雄(としお)(1889〜1972年)が奔走したとのことです。

「第1回国風盆栽展」で、美術界で最も権威のある「帝国美術院展覧会(帝展)」(現日本美術展覧会(日展))と同じ東京府美術館で「盆栽」の展示がされたわけですが、使用にあたっては、美術館の評議員の許可が必要で、一部の芸術家が待ったをかけたそうです。

しかし、小林とも親交があり、生花や「盆栽」に造詣の深かった彫刻家朝倉文夫(1883〜1964年)が「‘盆栽’も立派な芸術ではないか」と共鳴し、美術界の方々を説得したそうです。由緒正しい美術館で「盆栽」が展示されたのは、「盆栽」が絵画や工芸品などと同等であると認められたという非常に画期的なことです。

小林は、盆栽展の運営する「国風盆栽会(現日本盆栽協会の前身団体の1つ)」の発足にあたり、旧讃岐高松藩主家の生まれで、のちに貴族院議長となる、松平頼寿(よりなが)(1874〜1944年)を初代会長に招きました。頼寿は、副会長に旧姫路藩主という華族出身で農林大臣も努めた酒井忠正(1893年〜1971年)を招き入れ、貴族院議員全員を招待しようとするなど、国風盆栽展の認知、普及に努めました。

また、頼寿は盆栽愛好家でした。樹高20センチまでで、手のひらにのる程のサイズの「盆栽」を「小品盆栽」といい、古くから大名に親しまれていましたが、頼寿はこれを一つのジャンルとして確立したとしても知られています。
このような経緯を経て、文化人、政財界の要人たちに「盆栽」の格が高められ、皇居の後ろ盾を得て、さらに、芸術へと押し上げられていきました。

盆栽界全体が活気づいて、「盆栽」の愛好家も次第に増え始めた頃ではありましたが、第二次世界大戦(1939〜1945年)後は、盆栽界も多大な損害を受けました。

当初、国風盆栽展での出品は会員制でしたが、戦時中1943年第18回の「国風盆栽展」より『盆栽』誌上において会員の募集を始めました。これにより、「国風盆栽展」は公募展的な性格が強くなっていきます。

翌年の第19回の盆栽展は開催直前に、陸軍省報道部より公用通達の命で中止となります。
国風盆栽展は中断され、機関紙『盆栽』も休刊と云う事態に陥りました。戦時中は空襲で「盆栽」や「盆栽」の場が焼失したり、「盆栽」の作り手も減り、「盆栽」の温存を許すような社会的状況でもありませんでした。

しかし、戦後世情が落ち着いてくると共に、「盆栽」がまた盛んになってきました。機関誌『盆栽』が1946年に復刊され、「国風盆栽展」も第二次世界大戦をはさんで3年間、中断しましたが、1947年に再開しました。

戦後は政財界人を中心とした盆栽趣味の特権的な部分が、「国風盆栽展」が公募展へと移行した分、オープンになり、盆栽人口の増加につながり、大衆化としての完成を見たのです。

1958年には、東京日本橋三越にてデパートにおいては初の「日本盆栽名品展」が開催されました。戦後の爪痕も戻っていき、培養や管理状態もよくなっていき、盆栽専門家による本格的な「盆栽」が、久しぶりに大衆の目に触れたのです。

1964年、東京オリンピックの年には、オリンピックを記念した大盆栽展が開かれ、たくさんの外国人が鑑賞し、「盆栽」の認知度も高まりました。

1965年に、盆栽芸術の工場と普及発展、並びに日本文化の進展に寄与しようと、国風盆栽会を母体とし、「社団法人日本盆栽協会」(初代会長吉田茂元首相)が設立され、現在に至るまで「国風盆栽展」の伝統を守っています。

この頃日本は世界に類を見ない高度経済成長期(1954〜1973年)の真っ只中。高度経済成長を象徴する一大イベント「日本万国博覧会」が1970年に開催されています。日本の1000点もの「盆栽」が入れ替えながら展示され、「盆栽」は我が国が誇る素晴らしい伝統文化であり、芸術であるという認識が国内外に広く行き渡るようになりました。

「盆栽」が「BONSAI(ボンサイ)」として美と伝統が認められたのです。

国内外で盆栽熱が高まってきた気運を受けてか、1989年に埼玉県大宮市(現さいたま市)にて第1回世界盆栽大会(WBC=World Bonsai Convention)が開かれました。参加国は32ヶ国、参加者は1200名にも上りました。世界盆栽友好連盟(WBFF=World Bonsai Friendship Federation)が設立され、第1回開催後、4年ごとに世界各地で盆栽大会が開催されるようになりました。
※詳しくは「世界盆栽大会について」をご覧下さい。

また、1970年万国博覧会を契機に「盆栽」の海外輸出がはじまりました。以降「盆栽」の輸出額は増加をし、「盆栽」と庭木を合わせた輸出額は2001年に約6億4000万円でしたが、2008年には約52億4000万円、2012年約81億7000万円、2018年の植木・盆栽類の輸出額は2017年4月に第8回世界盆栽大会が開かれたことも手伝ってか、盆栽ブームを追い風に約126億3000万円と過去最高を記録しました。

現代

一昔前まで「盆栽」は年配者、リタイア後の趣味などど考えられていましたが、昨今では盆栽愛好家の数も増え、老若男女の盆栽愛好家が増加しています。
若者に人気となった背景には、「盆栽」のサイズの縮小化が手伝っています。手のひらサイズのミニ盆栽・豆盆栽や、苔玉など気軽に購入でき、スペースを取らないような「盆栽」の選択肢が増えたのも要因の1つかもしれません。

場所をとらずに育てられる‘小さな盆栽’は、机の上や机・棚の一角などに小さなスペースにも置くことができ、盆栽初心者でも気軽にはじめられます。

ブームに伴い、ミニ盆栽や苔玉などは、専門店だけでなく、雑貨屋やセレクトショップ、インテリアショップなどでも購入することが可能となっており、気軽に「盆栽」に興味をもてるきっかけとなっています。

観葉植物代わりに「盆栽」を置く企業もあるかと思えば、和洋問わず飲食店に鎮座もしていたり、マンションのベランダやバルコニーなどで盆栽作りを楽しむ20代、30代の方も増えているようです。

近年では、「盆栽」に人間や動物をかたどったミニフィギュア、玩具などを配置し、ストーリを持たせ、ジオラマのように小さな世界を作り上げるマン盆栽なども、若者の盆栽人気に一役買っています。

芸術性の高い日本文化として海外でも注目を集める「盆栽」は、英語ではBONSAIと呼ばれ、認知度は年々高まっています。世界各地に盆栽愛好の協会や団体が設立され、前述したように、海外への輸出も増加傾向にあります。

遥か昔に中国で芽生えた「盆栽(盆景)」が日本に伝わり、日本の風土で形式を変えつつも変化し、日本経由で海外に伝わり、世界各国で愛好されるようになったのです。世界各地の愛好家が、「盆栽」に敬意と深い感心を持って、盆栽作りを楽しんでいる様には、感慨深いものがあります。
詳しくは海外でも大人気なBONSAIを御覧下さい。

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この記事を書いた人

小林真名実

小林真名実
福井県出身。関西学院大学卒。雑誌・書籍・ウェブ・携帯サイトの編集に従事。その後、日本の映画・放送・アニメーションなどのコンテンツ産業を国際競争力ある産業とするNPO法人にて広報、戦略室業務などを担当。その後、出産を経て夫の転勤に伴い香川県に移住したことをきっかけに盆栽を知る。日本の伝統文化である盆栽の奥深さを世の中に伝えたく盆栽総合情報サイトの立ち上げに参画。編集長に就任する。
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